シングルマザーの平和への日々

生きるって大変。だから怒って、笑って、平和を求めて。

ケアレスミス男の逆襲_我が家の受験勉強法

 

高校受験の息子くんの

どうやっても80点越えれない問題。

ケアレスミスを増産する対策を考えております。

 

経済的問題、かつ合う塾探し迷子の我が家では、いわば家が塾で母が塾長なので、そんなことももちろん共に考えなければなりません。

まずケアレスミスの原因を知り、それに対しての対策方法の模索です。

 

対策1 問題の読み間違い

 

問いの読み間違い、多すぎねえ?

ってくらい間違えております。

たとえば

◯適さないものを選べ→適しているものを選ぶ

◯理由は何か?→なのに同じ意味のことを書く

◯文中の言葉を使って書きなさい→全文抜き書きする

 

早とちりってやつですね。

もともと読解力が弱いので、なんにつけ国語力が基本だなとつくづく思います。

そして定期テストだと教科の先生によっては、問題の読解力を鍛えたいのか、割とひっかけようとする問題も多かったりして、

だからこそまずは問題を読みとくチカラが大事。

ということなのですが、中学3年の二学期末に今更読書をたくさんするというのも無理な話なので

最終手段としては、

問題を出す人(たとえば先生)が、あなたに何をさせたいのか、それは文末に書いてあるので、文末の〇〇しなさい、に線を引こう。

これが具体的対策です。

ええ。もうそんなくらいしか言えることがない、というのもありますが、なかなかに侮れないと思っております。

あと、ものすごいややこしめの文章は(理科の計算いる系に多い気する)

必ず2回読む。

ですかね。

2回読んで問いたいことが理解できなければ、飛ばす。いくら考えても分からんやつに悩みだし、不毛地帯に足を踏み入れてしまうと出て来れなくなるので。

 

対策2 文末の処理、脱字(英語)

1、2年の時にやたら多かった、疑問文の❓漏れ。

これは疑問文には絶対つくのだ!という叩き込みで減ってはきたものの、ちょっとした抜け漏れがまだあるっちゃありまして、「分かっているのに失点する」悔しさは彼自身幾度も繰り返しているので、もう塾長からとやかく言うことでもないかなと。

ただヒントというか具体的に、自分ができることとして、本番で失点したくなければ、日々のささやかな宿題やワークでの間違いをスルーせず、舐めないことだとは伝えました。

ミスの言い訳より、俺ってケアレスミス男なんだと。

完璧じゃなくていい。

まず己の弱点を自覚して、飲み込んで、丁寧に向き合えと。

そんなマインドがあれば克服できると思っています。

 

対策3 計算ミス

最初は、習った方程式を理解できてないのかと思ってたんですけど、一緒にやってみたら理解はしてるんですよね。

じゃあ何故間違うのかって、これはもう単純に計算段階で間違えてるのです。

てことは?

一つにはおそらく数をこなせてないんだな、と。

慣れ。九九を覚えるのと同じで、とにかくこう来たらこうなる、という反射神経くらいな計算脳をつくらねばならなく、それにはとにかく計算パターンに慣れるしかないなーと。

だから方程式を覚えるより、とにかく問題解こう!

あと、字が汚い。

だから筆算で位がズレたり、3と8を見間違えたり。

誰も読めない息子の数字を、己れは読めると過信しているので、自分の回答用紙の横の計算式を「じゃあこれ、なんて書いてあるよ?」と聞いたら、「・・・なんて書いてるん?」となり、撃沈。

この事件は以前通っていた塾の先生の前で行われまして(まだこの時は産休に入る前で適切な指導してくれてた先生の方)、このことにたたみかけるように先生が「数学でよい点を取れる子は、計算式がキレイだよ」って言うてくれまして、親より説得力ありました。

なので、そこからは筆算などの計算式を歪ませずに気をつけているようです。

 

 

 

てことで、この3つくらいが彼にとっての具体的対策ではあるんですが、

その前にファミリー塾の塾長として生徒と向き合うことで私自身が悩んだというか、課題を感じてきました。

 

たとえば、これらの息子の具体的対策は、すべてある程度の時間がかかるということ。

間違えないようにケアできるようになるまでも、ケア自体にも、時間がかかる

ということです。

苦手なことは、身につけるのにも、実際やっていくにも、時間を要します。

けれども、学校は彼に合わせて待ってはくれないし、気をつけるようになりはするものの、そのためにやたらに時間がかかってしまう息子に、私自身も焦ってアレコレ言ってしまうことがあったりして。

 

でも最初から対策したからってスピードを持ってできるわけはないんですよね。

そんなことは、当たり前だのクラッカーで。

 

だからね、忍耐なんです。

最初は、スピードより丁寧さ。

何でもそうだと思います。

で待つ。

で、ケアレスせずに、ケアできたならば、一緒に喜ぶ。

 

てことはつまりです。

 

テスト前にやーやーいいがちな塾長。

それはよくないと気づきました。

テスト前でもなんでもなく、互いが心にゆとりのあるときに、頭にスッと入りやすい時に、間違いを笑い話にできるメンタル時に、幾度となく、対策をやっていかねばならんと。

 

で、それには日頃の気持ち良いコミュニケーションが欠かせないなと。

 

まあだから、我が家の息子が、もともと素直ってのもありますね。

間違いを指摘しても、優しい感じで伝えると、素直に聞くので、そこは彼の良さだなと思います。

これをうちの娘にしても、なかなかね。

ここはその子の性格や特性もあるかなと。

 

親が焦ると子供は当然のように焦るし、親よりも不安を強めるんだなと、塾長に自薦で任命したときから、より実感しました。

だから、塾長は焦らないこと。

長い目で見ること。

 

いちばん難しいことで

いちばん大切なことです。

 

ある意味では、ネガティブな表現になるけれども、諦めることも必要で、

たとえば子供がどう考えても東大に行ける感じではないのに、東大を目指してしまうという不幸というか、そうならない程度には現実を受け入れることだったり、

だからといって絶望したり、落胆するのではなく、

この世の中で人間が幸せに生きていくために、必要なことの優先順位を間違えていかないように気をつけることだと思います。

 

つまり、受験勉強は、何かの目的ではなく、手段に過ぎないこと。

手段、知識、テクニック。

それらを得るには個人のレベル差は確かにあるけれどもだからといって、それがあなたの価値ではないという親子共々の価値基準の共通認識を持つことだと思います。

 

ただ塾長としても母としても、だからって「人の価値には関係ないから受験勉強なぞせんでいい!」ということは言いたくないのです。

 

そうではないのです。

 

知らないことを知る事は、とても価値あることです。

テクニックを学ぶことは、どんな世界にいても必要になることが多いです。

 

私たちが、立ち上がり、歩き、言葉をおぼえ、他者と話すのは、知識とテクニックの繰り返しで覚えてきたこと。

 

生きる上で、幸せになる上で、それらを学ぶ姿勢は赤子の時からすでにあるんだから。

 

息子を通して、中学生の勉強に触れてきて、高校受験勉強は、基礎学習として全部生きていくのに必要なことだな、と感じました。

 

ただ、今のこの受験のあり方だとか、少子化なのに個々のペースに合わせられない義務教育の環境だとかに課題は多いとも思います。

まず、成績や偏差値で人間を測るみたいな価値観を持ちやすい、特にまだ、頭が柔らかいはずの子どもたちにそういう誤った価値観をつけてしまう恐れがあるよなぁ…とは思います。

 

だから、受験勉強は知識やテクニックを学ぶだけでなく、それがどう役に立つのか?だとか、私たちは何のために生きているのか?だとか、社会はどのように成り立っているのか?だとか、いわゆる哲学、倫理学社会学みたいなものを、大学より以前に、実践のなかで考えたり悩むみたいなことを同時にやっていくことが、すごく大切なんじゃないかなと思います。

人生の壁にぶつかったときの耐性や持久力をつけたり、人生の岐路において軸を持って選択できるようになるために。

 

あなたは何故受験勉強するのか?と聞いたら良いと思います。

 

いい学校に入りたいから

いい会社に入りたいから

 

そんな答えだって別に間違いではないけれど、でもそれは、手段であって、「何故?」の真の答えにはなっていない、あなたの生きる目的として語ることではないんではない?と話し合っていくということです。

 

さて、話がふくらみまくりましたが、この対策でケアレスミスはどこまで減るのか?

80点を超えられる日はくるのか?

 

あともう少しですが、見守りつつ楽しみにしていきたいと思います。

(受験するのは本人だしね)

 

ちなみにうちの息子の受験勉強の目的は

「強くも弱くもないサッカー部(がある高校)で楽しくサッカーしたいから」です。

 

 

 

 

 

 

選択的夫婦別姓の意味が離婚して見えてきた

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日に日に世界がわるくなるー

気のせいかー

そうじゃないー

そんなじゃだめだと焦ったりー

生活しなきゃとすわったりー

 

朝ドラ「ばけばけ」の主題歌が心に沁みすぎて、

毎朝癒されてます。

ハンバートハンバートの「笑ったり転んだり」。

 

 

 

選択的夫婦別姓問題も

ちょっとでも良くなればいいのに

なーんか良くならない「世界」のひとつだなーと

思うんですが、

 

この問題の要って、

 

今生きる人が困っていることに制度が追いついていなくて

 

あるべき選択肢を奪われてしまっている

 

ということなんだと思いまふ。

 

 

私が離婚したとき、

 

めっちゃ思ったのが

 

「私、夫の家のお客様だったんだな」

ってことです。

 

戸籍謄本には、筆頭に夫がいて、そこに妻やら子やらが付随してます。

 

それだけをみれば、別に書類上のそれだけのことやん、なんですが、

 

離婚するとなれば、

私ってば、その戸籍から「外れて」

自分で戸籍を作るか、前の戸籍に戻るか

そのどちらかの手続きがいるんですね。

 

で、夫はというと

なーんもしないわけです。

 

でん、と居間に座ったまま。

 

私だけ、「お邪魔しましたーお世話になりましたー」と

出ていくわけです。

 

…なんか…腑に落ちない。

 

これは結婚したときに、

戸籍を夫の方に移さないといけなくて、

その住所が私には少しも縁のない土地で、

(夫の祖父母の土地)

そこに住んでもいないし住む予定もないのに

これがあんたの戸籍としての居場所だよと

公的には記録されてしまうことへの違和感でもあったんですが。

(ちなみに戸籍の住所=本籍地は申請したら変えられます。それを夫がやる気がなかったってことなんですが)

 

逆に日常では支障はないです。

周りの人が私をあの一家のお客さんとみるわけではないし、社会的に「嫁」として、が私のアイデンティティでは全然なかったし。

 

だけど、変な制度!今どき合理的じゃねーな!

 

とは思いました。

その時は古くからの家制度の名残りだとかは知らなくて、背景までは考えてはいなかったんですが、なんで誰もなんも言わないんだろうな…と平成半ばの私は思ってました。

もちろん仕事場でも旧姓ままでした。そんなのは平成でも普通のことでしたね。私の周りでは。ご近所付き合いでは新姓だけれども、子どもができて、転職したりして、夫の姓の方を使うことが徐々に増えていった感じです。

 

そして令和を迎え、

いざ離婚したら、

私は立派なお客さんでした。

 

でん、と座るだけで何もしないでいい

元夫を横目に、

いそいそと役所で戸籍作りに勤しむ元妻。

せめて自動的に旧戸籍に戻るとかなら

そこまで思わなかったかもですが、

一瞬、どこにも所属してない自分がいて、

それがなんだか「放り出された感」。

 

でもよく考えたら、あの時こそがいちばんの自由だったのかもしれません。

それにしても、実際に私の結婚生活は、お客さんだったんですかねえ。

戸籍ってなんなのさ。

 

実態にそぐわない戸籍というアイデンティティの必要性が全然分かりません。

 

だから、選択的夫婦別姓の根本にある問題は

戸籍制度、そしてその源にある家制度、

それがいかに、

現実に生きる夫婦の姿と

乖離しているか、

ですよね。

 

一体夫婦とはなんぞや、ってことだなと。

 

戸籍のように、あとから追加された方が、お客さんみたいな感覚になって、

お邪魔してみたよ!な感じよりも

2人で協力して暮らしや人生を作っていく感覚に沿うパートナーシップ制度みたいな制度の方が、責任感と覚悟と希望、そして互いを思いやる感覚が待てて、よいのではないかなぁ。

ちなみに、というか、これこそ呆れた話なんですが、子どもの戸籍も親権者に自動的にくっついていくわけでなく、移し替えの申請が必要です。

 

そんなに血筋を戸籍にしばりつけたいんかいと。

「家」(戸籍)の存在って、よっぽどのことなんだーと。

 

 

夫婦の姓なんかは、基本は「どっちでもいいじゃん」として、結婚したら強制的にどちらかじゃなく、戸籍も選択できますよ、それで同じく夫婦として扱いますよってのが

選択的夫婦別姓という考え方の根本なんだと思います。

 

でもここでふと疑問がわきました。

選択的夫婦別姓になったら戸籍まで個別になるのか?

勝手にそう思ってるけど、

そうとは限らないなと急に不安になりまして、

厚労省のサイト見に行きましたらば、

なんと別姓でも戸籍は同一らしいです。

 

えー😱

結局、戸籍にお邪魔します問題は残ったままか…。

 

ちなみに、フランスを調べてみたら、戸籍は個別で、というか日本みたいに世帯ごとの戸籍という制度はとってなくて、個人の証明が登録されているそうで、個人単位で考えるからか、結婚してなくても事実婚を申請したら、税制優遇や社会保障、子育ての権利を等しく受けられるそう。

夫婦の姓に関してもむしろ、別姓が基本で、なんなら、2人分の苗字をならべて使ってもいいよというくらいで、そもそもの縛りが少ないというか、頭が柔らかいです。

やっぱりレボリューションの国は根本が違うな…

250年の年季が違う…

 

そしてですね、なんと。笑

私、もう苗字変えたくない、

面倒くさい…となりまして

旧姓に戻りませんでした。

子どもが学校で詮索されるのもなんだかな、というのもあり。

で、その選択の自由はあるんですね、日本も。

でもただし、それはそれで申請がいるのですよ…

もうなんでもかんでもこちとら、お役所様にお願いし続けてておりますよ。有給取りまくって。

元夫、でん(なんにもしない)。

はい。

 

 

しかし、

社会的に苗字が変わるってのは、

寿退社なんてゆー時代なら価値あるのかもだけど、

確かに、はあ?ってなりますよね。

主に女性側だし。というかほぼ。

 

実際には旧姓のまま面倒なことわりをいれたりしないまま仕事したいだろうし、

個人の事情がバレバレだし、

そしてなんかやっぱり…

よそのおうちに付随される空気を感じます。

言われてみれば。

こうやって考えてしまうと。

 

考えたら、世の中まあまあおかしなことが

普通にあるので、

生きにくいなあ。ほんと。

考えない人間になりたい…

 

ってことで、

選択的夫婦別姓問題は

夫婦とは一体なんなのか。

 

人生のパートナーなのか。

それとも「家」を受け継いでいくための存在なのか。

 

そこへのメスを入れる一歩なのかな。

戸籍変わらないけど、まず一歩ということで。

 

もし、婚姻というものの考え方が、戸籍みたいな家のつながりではなく、人生の対等なパートナーという空気がもっとあれば、離婚してなかったのか?

それは分からないけど、窮屈さはいくぶんマシだったのかなぁとは思います。

ゆーても個人の考え方次第なのだけど、でも古い制度が古い考えを後押しはしてる部分はあるとは思います。

 

何人たりとも選択肢と権利が奪われない、心の豊かな国で生きていけますように。